昭和二十二年、戸松慶議会長は東京数奇屋橋で二十一日間の断食を以て、時のマッカーサーに面会したのを皮切りに大和党を結成。昭和二十四・五年、日共・朝鮮連に対し、全国二十七ヶ所で労働争議に介入し肉弾戦を展開、朝鮮連を解散に追い込む。昭和三十一年にソ連大使館を襲撃し、昭和三十四年、國乃礎運動を開始。その後、安岡正篤氏等と民族派大同団結を呼び掛け、日本国民会議を設立した。
日本の国柄、神道・天皇・神社・家を中心に今日に到るまで神道改革運動に専念、傾注し、後進の指導に当たった。又、頭山満の流れを汲む唯一の存在として、又、日本民族派の最長老として政・官・財のトップに睨みを利かせた。
※國乃礎本部・篠原仁副会長は、参与として鹿児島会議に参加
戸松慶議著書・戸松登志子著書・西郷隆盛ポスター